Trans-reflection

大森裕美子にとって自然に倣うことそのものが作品になるように思われる。ここでいう自然とは、古い概念ではあるが、人間によって対象化される所産的自然(natura naturata)ではなく、あらゆる存在を包み込む概念としての能産的自然(natura naturans)のことである。このような位相のもとでは、人間によって破壊される環境も近代芸術も、理性をもった存在としての人間自身もまた相対化される。つまり、大森の作品は芸術を絶対化した近代の文脈だけに封じ込めることはできないのである。まず、世界=能産的自然と出会う場が、大森にとって作品として位置づけられる。自然との出会いは、まず採集と標本づくりという方法によって実現される。もちろん、後にみるように、大森にとっての採集は自然だけが対象となるのではなく、所産的自然の一様態としての人間の営為も等価にその対象となる。例えば、大森は採集した植物の種子や珊瑚を加工して作品に作りかえてしまうのではなく、箱という器の中に標本として提示することをそのまま作品に転化するというステップをふむ。これは私たちが子供のころおこなった昆虫採集などにみられる初歩的な科学のアプローチである反面、科学者のように人間の論理形式に無理やり従わせようとする分析的方法では全くない。すなわち、ここでは動植物を扱いながら、それらを対象化するのではなく、人間と対等化する、あるいは人間を自然物と対等化するというスタンスが保たれている。
こうして動植物屋人間が支配的に関わるのではなく、自然が作品に転化される同系の系譜として、大森には無機的な物質に関わる作品がある。[Materiaal Glance]と[Material Balance]である。前者の「物質のまなざし」では化石や鉱物などの採集される物質とともにピンセットや磁石といった採集の道具そのものもまた、”見られるもの”として全く等価に扱われている。っこには人間中心のモダーンな美術の視線とは逆の、太古から人間の計りえない未来へと人類の歴史をはるかに超える時間そのものが私達を見やるという視線がある。一方、後者「物質の均衡]は物質の組成と色に関わっている。色彩とは人間の感覚に従属する以前から、光という物質と鉱物と植物といった物質に内在するものであったはずだ。ここでは絵画を絵具とカンヴァスという人間の作った道具への不徹底なレベルの還元にとどまった近代主義の近視眼とは次元が異なる次元、視覚と物質と色との相関が問われている。
これら動物、植物、鉱物などの生命的存在と有機的存在、無機的存在を扱うというよりも、人間の意思の及ばない、しかも人間存在よりも古い地球所の存在に大森の作品は耳を傾けている。自然の法則にあくまでも従うことが優先される。そこにあるのは人間が対象化した自然ではない。あくまでも人間を守護とするならば、単に人間と無縁に客観的に存在する自然ではなく、人間によって反省された自然といってもよいだろう。風景という人間の歴史によって対象化された自然観とは全く異なる能産的自然がそこでは顏をのぞかせる。
次に、これらの作品にも、これらとは異なる傾向の作品にも異なる共通していいるものを撮りだすとすれば、それは矩形であろう。例えば、分析するのではなく、あくまでも観察するように珊瑚を作品に取り込んだ「collection」も、今回のギャラリーNWハウスでの作品も矩形という最小の共通点を持っている。それは現在の工業規格において、紙も金属も材木も矩形が基本となっているという単純な理由によるものではなく、それ異常に円を基調とする自然に対して矩形に象徴される人間(おそらく近代という限定が必要であろう)との鋭い対比を浮かびあがらせる。矩形はあらゆる減少を人間の認識の形式に当てはめるのに全く好都合なものなのである。「collection」は自然に手をくわえる事なく、認識のフレームだけを付加して作品化したものといえるだろう。
こうして、この自然に従う大森の方法は、所産的自然としての人間の視覚が現象をごうとらえるかというフォーマルな問題にも当然のことながら妥当する。それは近代だけに特殊な問題ではなく、普遍的な問題だからだ。今回の作品では、絵画におけるいわゆる支持体とカンヴァスは矩形のトタン板とガーゼ(プランの段階でガーゼを使用)に、絵具は鉱物の水溶液にまで、それぞれ還元された。しかも、平面の枠を出て、立体空間までその問題は同時に敷衍されている。矩形という合理性がもっとも機能的に反映される建築空間としての画廊は、マーキュロクロムの水溶液と矩形の鉱物の板で分割され、しかも、機能としては空(くう)であった空間が、外的リファレンスを全くもたない最小限の色と形によって、私たちのア・プリオリな感性形式に見事に適合した作品に変貌したのである。今回の作品は自然の中の鉱物の探求と認識の形式性の探究とかが最も高いレベルで融合された作品といってよいだろう。
このように大森の方法は日本の美術がとらわれていた様々な制約を、自然に倣うという今日性によって克服しつつあるといってもよい。それが、一元的近代観にとらわれていた西欧のこの二世紀間をも反省する重要な美術の動きと一致するのははたして偶然なのであろうか。

CURATOR’S EYE 1991
山本和弘(栃木県立美術館)