tiny-tiny little, little tiny

ささやかな連綿としたこの日常生活の中で、呼吸するのとほとんど同じレヴェルで制作すること。新奇さや特殊性やインパクトを求めず、つとめて模索したり選択したりせず、出会うもの、厳密には不意に出くわすものをまなざすこと。このところあふれているそうした制作法の多くが、現代美術の強度を衰弱させたことは否めないだろう。それはきわめてナチュラルでのびやかな態度に感じられるが、ときに鑑賞者のまなざしという僅かな刺激にさえ耐えない、たんなる個人の感傷の展示に終始してしまいがちだ。

 微細なオブジェを収集保管する標本制作や、その蓄積性とはうらはらに、マーキュロクロムにガーゼを浸したひじょうに切り詰めた表現が、印象的であった大森裕美子。彼女の今回の作品は「tiny」と名づけられた薄いプラスティック板をモティーフにしたドゥローイング。彼女はそれに93年、ニューヨークの路上で出会ったという。シャツの襟の型崩れを防ぐために用いられるというその輪郭を赤鉛筆でなぞり、もともとは香港土産にもらったというマーキュロクロムで丁寧に塗りつぶしていく。その作業は反復してできた形を組み合わせたり、エンボスで浮かせる。あるいは、ガーゼ状の生地がすける石膏板上で、色褪せたドイツ語の愛読書の紙片とコラージュする。実用のためにある抽象的なかたちはその用途からはなれ、赤チンの暗褐色いろに塗られて、だれも、おそらく作家本人も予想しえなかった軌跡を遊びはじめる。骨格や関節、脳や内臓、ミトコンドリアなど、なぜか生物的なものを連想させるのも不思議な体験だ。衰弱どころか、そこにはたしかな生命力が感じられる。ひとの首回りに合わせて、微妙な曲線を描くプラスティックは、これまで大森が出会ってきたすべてのモノと同じように、それ自身と彼女自身の存在のかたちをはかり、たしかめるための定規なのである。

 日常を耕して、沈んでいるtinyな、小さな断片に出逢うとき、のっぺらぼうの現実は少し破れる。その傷を彼女のマーキュロクロムやガーゼがおおう。そして小さな刺激で揺らいでしまう感傷という傷さえも、それは「手当て」してしまうのだ。

田川とも子 (BT1998年4月号展評)