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自分のまなざしに見合ったものだけを採集ないしは拾得して箱のなかに納める作業と並行して、三年ほどまえから開始されたのがマーキュロクローム(いわゆる赤チン)を使った連作である。ゴムに赤チンを塗ったものがさまざまなかたちを見せる。今回は小品が中心。「柔らかな鍵穴」と題された4点は、押せば潰れてしまいそうな同形の小さな膨らみ。形がはらむ空間とゴム自体の膨らみ以外、中身らしいものはない。「庭周路」の二点はいずれも、ガーゼに石膏を塗り込めた支持体の四辺を囲むようにゴムが巻かれる。四隅で引っ張られるゴムの膨らみに目が止まる。支持体は文字通りそれを支えているだけの存在で、白い石膏面がなにかを伝えることはない。「gardener coat」と「鍵の様子」は、一対の作品で、バスタオルが壁にかかるようにゴムがぶらさがる。ぶらさがっていること自体が妙に記憶に残る。ただ、一対の関係がやや説明的だったように思われた。さらに「種子の重さが生きられる日数を決定する」と「保管される種子」。これもほとんど一対と見える作品だが、同形に折ったゴムを規則的に縦に重ねたり横に並べて石膏の型に納めてある。ここでは緊張よりも停留、蓄積される感じである。

 しかしこうしたかたちの変化にもかかわらず、印象に残るのは赤チンに彩られたゴムの官能的な質感であり、触感である。そして絵具ではなく赤チンを採用したことは、じつに大森が当初から絵画や彫刻ひいては美術とか作品といった枠組みにとりたてて感心を寄せていないことを示すものでもある。もっとも枠組みから積極的に逸脱することが目的なのではなく、そもそも意識がそこにないのだ。むしろ、興味の赴くままに作りつづけた結果が、美術ととりあえず呼ばれてもさしつかえない。そんな視線を獲得するにいたったという風に見える。

 赤チンが塗られた跡やその色に対する個人的な思い入れもさることながら、その色(赤)には傷を癒す機能が自ずと重ね合わされる。むろん、作品によって心身の傷や苦しみや悲しみが実際に癒されるわけではない。しかし機能を剥奪されても赤チンという物質は突出して感じとられてしまう。赤チンは、だから絵具の変わりというわけにはいかない。 

 赤と白で統一された会場を見るかぎり、どの作品もさりげなくできあがってしまったかのように見える。気負いのない提示の裏にはかならずそれなりの周到な計算があるものだが、それも感じさせない。また多数の箱に収集物をおさめる作品に比べると、赤チンによる作品は見た目の美しさに欠けるかもしれない。しかし箱の羅列では分散してしまう視線が、ここでは切迫したものとなっていた。

 

BT 1995年8月号 島 敦彦(国立国際美術館)