日常の奇蹟

 十年程昔、彼女の初個展(ギャラリー現)に接した驚きと喜びは忘れ難い.ごくありふれた、ちっちゃなナンデモナイものが、彼女の手に触れると、魔法のようにアートに化ける.いかにもそれらしい雰囲気づくりに専念し、人の眼を化かそうとする人がいる.たしかにそれも芸のうち.良くできていれば心地よく化かされてもあげようが、大森のアートへの化身にはかなわんのである.何故か?その後のフォローを通じて高まった確信だが、彼女の場合、日常の生活から已むに已まれぬ欲求として出た内実が、結果としてアートになってしまう.自然体.<生活そのものをアートにする>というのは、アート的生活を送るのと違って、大変困難な路だ.彼女の持つ[強さ」「潔さ」そして「優しさ」が前進を支える.これらは<物質にたいする礼節>という自身の言葉の中に、端的に集約されていよう. 
 このような生き方は、やもすればモノローグの世界に内閉しがち、と思ったら全然違う.現在進行形のダイアローグがいつも基調にあることを強調しておきたい.しかし彼女が発する信号はとてもピュアで繊細だから、受け手の受信感度が低かったり、アンテナが逸れていたりすると、受け損なう恐れがある.受け手にもそれなりの努力が必要だ.展覧会ピースとして形の色の美しさを観賞する、或いはコンセプトやプロセスを知的に理解して満足する__こういう通常スタイルと、ぴったりはまらないかたちで、彼女の芸術は存在するのだから. 
 一昨年彼女は、「メイルアート」と単純には括れない不思議な有り様で、何人かの受け手に「作品」を郵送するプロジェクトを開始した(幸運にも僕はコードナンバー007の郵送先に指定された).これなんか、作家と受け手の関係(ダイアローグ)を一挙に濃密にする企てであることは明らか.受け手にとって美術館より画廊、画廊より自宅で作品に接する方が、より親しい対話が出来る.また作家にとっても、作品発表形態の拡張、深化に繋がるだろう(「メイルアート」はまとめて画廊展示もされる).このような方法を通じて、生活の次元を高め、そのことがアートの高さに繋がるよう勤める_生活即アートの困難な路を実践する稀なアーティストの一人になった.
 ところがこういった基盤を近いできない評論家にかかると、とんでもなくカン違った評定が下る.かなり前になるが、ギャラリー現の個展は、第一部がマーキュロクロムを寒冷紗に染めた美しい造形作品、第二部がガラっと日常に転換して、小さな一人息子記詩君とのコラボレーション.両方を併せて見ることで、大森裕美子の全てが判る仕掛けとなっていた.この第二部に「美術手帖」展評でイチャモンがついた.<子供の絵はやはり子供の絵.芸術とは無縁である.……アートの”おんなこども化”には異議を唱えたい>と.こんな断定に作家はもちろん、007も痛く傷ついた.しかし今は、<こうやってカギカッコ付きの「現代美術」は内閉化するのだなぁ>という感想に留めておこう.各々が持つ傷口(Wunde)には大森裕美子の赤いマーキュロを塗り_それがやがて全世界へ向けての解放という奇蹟(Wunder)に連なることを信じて.

HEARTH-NET Art Space Netwark no.08 1999
MACA ギャラリー増井常吉