美術家の冒険 多面化する表現と手法

[ものとの生活]

大森裕美子がつくりだすものには。見かけのうえで5つの異なるタイプのものがあると思う。日々の生活の中で遭遇し目にとまった様々なものを手製の石膏の板の上に並べた[物質のまなざし]と題されるもの。それらを厚紙で作った箱に納め、テグスでとめた「展翅考シリーズ」と称されるもの。その「展翅考シリーズを青ボールペンやマーキュロクロム(赤チン)を使って紙にスケッチして、断片的な言葉を書き添えたもの(言葉のないものもある)。赤チンをつけた生ゴムやガーゼやブリキ板や、型どった真っ白な石膏を画廊や美術館の空間に配置したもの。そして、そうした作品の写真や自分が出品した展覧会のカタログの抜き刷りなど、自分自身に関わるあらゆる資料を丁寧にカラー・コピーし、それをバインダーに綴じた「TEXT」と呼ばれる一種の本の5種類である。これらはしばしば、異なったもののように言われるという。しかし、大森にとっては、世界を自分がどのように見ているのか____大森の言葉を引けば、「自分のまなざし」を確認する____という同一の関心に根差した行為であり、その行為の多様な現れなのである。様々なものを石膏の板のうえに並べることも、箱に納めスケッチして言葉を添えることも、生ゴムを空間に配置することや、自分の作品をもとにファイつをつくることも、すべて、大森にとっては「自分のまなざし」の確認作業といえるものなのである。
それらいずれの行為も美術学校で学んだり、人から教えられたりしたものではない。また何か既成の方法を採用したものでもない。そうではなく、自分の惹かれる視覚を丁寧にたどっていくことから、自ずと具体的なかたちとして定着してきた方法である。「展翅考シリーズ」は標本箱を思わせるが標本箱を真似たものではない。他のどのタイプの作品よりも美術作品らしく見えるドローイングは、既成のドローイングの方法論によるものではない。すべて、ものに則しているうちに、大森のなかに生まれてきた方法である。多様な現れ方をする大森の仕事の根底にあるのは、恐らく、ものとの「出会い」であろう。この「出会い」とは文字どおり「出会い」であり、探し回ったりするのでも、理論に基づいて知的に選択するのでもない。ただ、大森の「出会い」は、私たち現代人が逃してしまっているような「出会い」も網にかけてしまう。大森自身が自分の才能だと信じているこの「出会い」の力が、大森のつくりだすあらゆるものの始まりである。赤チンや生ゴムや石膏など、インスタレーションに使われているものも、実は、珊瑚など箱に入れられるものと同じように、大森が「出会った」ものなのである。
ものとの「出会い」があり、時が流れる。そしてあるとき、箱に入れたり、ドローイングしたり、言葉を添えたりする。また、今回のように展覧会への出品依頼にこたえて、展示会場に合わせた赤チンや生ゴムなどによりインスタレーションのための「TEXT」を作ったり、石膏を型どりしたり、ゴムに赤チンをつける、そしてそれらをどのように会場に配置するかを模型を作って考える、さらに「物質のまなざし」を出品するために石膏の板の上に「出会った」ものをどのように配置するかをシュミレーションする、またそれを写真に撮る。こうしたことすべてが、大森にとっては「自分のまなざし」を確認することなのであり、それはもとをたどれば「出会い」が出発点になっているのである。
こうした大森の行為は芸術活動として意識されたものではなく、日々の生活の一部になっているようである。この展覧会を準備する期間のさまざまなやりとりから推測するところ、買い物をし、食事をし、子供の面倒をみて、働きに出るといったことと、それは同じくらい当たり前のこととして、淡々と行われているのではないかと思う。写真などの資料を送ってくれるようにお願いすれば、指定した締め切りにその時点での最良の情報を丁寧に紙に包んだ状態でとどけてもらえたように思うが、そうしたことは大森にとっては、改めて考えることなくできるのではないかと感じられた。大森の展覧会に対する姿勢は、気負うことなく、完成というようなものを目指すものではないが、出品作品の選択や会場やカタログの構成についての考えは、締め切りまでの与えられた時間のなかで確実に深まっていったように思う。
「私の不安定なまなざしが結晶を夢みつつも決して凝固しえない液体のような<あるもの>として確認されてゆけばよいと思います」。こう記しているように、大森は、自分のやっていることを達観している。大森の活動は、過程そのものに断片的なしかし無上の喜びを感じることのできるシステムになっており、そのこをと大森自身が誰よりもよく知っているのだろう。
こうしてできた大森の作品に接して、不思議と心が洗われるような感じがしないだろうか。それはやはり大森が、私たちが日常的に____また美術作品において____やっているような、ものを支配し、言うことをきかせるようなことを決してしないからであろう。
いま私たちが大森の作品を見ることには、大きな意味があるように思えてならない。

中西博之(国立国際美術館) 1996