視線の結晶学

私が今まで買ったり、使ったりしてきた品物、読んだ本、展覧会入場券の半券、領収書など、生活の中で関わってきたモノを、もし処分しないですべて保存できたとしよう。買った日、使った期間、不要になった日を記入して保管できて、なおかつそれらを陳列するためのそれなりのスペースを確保できたら、「<私>博物館」ができるのではないか。人間が今までの歴史の中で関わってきたモノ、作り出したモノをある法則に従って並べ、後世の子孫、よそからやってきた人々に、自分たちの営みの歴史を伝えることが「博物館」のひとつの機能なのだから、「<私>博物館」は、何でもない平凡な私という一個人の歴史をモノに託して他の誰かに伝える事になるだろう。実現の望みの薄いこの試みは、しかし意外にも、「人間」とか「民族」とかいった大きな枠組みで語られてきた「歴史」に埋没してしまうほかない平凡な一個人の人生/生活を浮かび上がらせ、、私>という極小単位の世界から極大のなにかを伝達するための有効な方法かもしれない・・・。
大森裕美子のまるで標本のような作品『Material Glance 物質のまなざし』を改めて見ると、ちょっと前に私がそのようなことを考えたことを思い出してしまう。大森の作品にはいくつかのバリエーションがあるが、もっとも印象的で魅力的でユニークなのは、なんといってもこの『Material Glance 物質のまなざし』である。それは大森の眼差しに見合った<彼女はこれを「モノと出会う」と表現する)、実にささやかでなにげない無数のモノの断片が、彼女自身の手によって作られた小箱に入れられたり、石膏板や白いタイルの上に並べられた作品である。珊瑚のかけら、鉄片、石膏片、ワッシャー、小瓶の蓋、フィルムの切れ端・・・いずれもあまりにも断片化していて、原型を言い当てることが難しい。モノに囲まれた日本での生活の中で、確かに私たちは目にしたことはあったかもしれないが、大抵の場合はどうでもいいものとして捨ててしまうか、見過ごしてしまうか、放置してしまうようなモノばかりである。ところがこれが大森の手にかかると、なぜか謎めいた神秘性を帯びたオブジェへと変化する。
「この物質に出会ったことがすごく大事だったことで、珊瑚だから、ということはないんです。自分の眼差しにかなった物」(註1)。大森はモノへの自らのまなざしの向け方を、このように端的に言い表している。それが何であるか、は事後的なことに属するので、あまり重要なことではない。大切なのは、大森の気まぐれで偶然的なまなざしが向けられた対象に、彼女自身の「世界」が現れていること、なのである。
そのことをさらに確認していくために、彼女は出会ったモノを箱に展翅するときに、出会った日、箱詰めした日付を書き入れ、自分のサインを施す。さらにそのモノのドローイングを作成し、モノに見合った(と彼女が確信する)言葉の断片を書き入れ、ここにも日付とサインを入れる。
今日もあの日も、確かに自分が存在していて、世界と一瞬でも向かっていたことを確認するために、出来事を日記帳に書き記すのとどこか似ている。あの日彼女が眼差しを向けた先に偶然在ったモノに、彼女の視線が結晶する。それが蓄積され、無数の『Material Glance』となってゆく。そう、結晶したものは彼女の一瞬の視線(=Glance)だ。だからこれが積もり積もったとき、「<大森裕美子の眼差しとでったモノ>博物館」ができるのかもしれない。そこに並べられたモノは、大森という一人の<私>が軸となって見いだされた、とても小さな「世界」の集まりであろう。しかしそれは決してまとまりとなって一つの世界を京成したりはしない。視線が結晶化して、まとまったものを目指しつつも、決して統一されることはない。バラバラのGlanceがバラバラなまま物質と化し、論理的つながりも相関性ももたないまま、ただ大森の気に入った配置に従って並べられるのである。
この『Material Glance 物質のまなざし』と平行して続けられている異なるいくつかの作品群がある。ゴムにマーキュロクロム(赤チン)で彩色し、石膏と組み合わせられたインスタレーション。それからtextと題された、出会ったモノの輪郭をマーキュロクロムでドローイングし、そこに言葉を添えたもの。出会ったモノを石膏でそのままかたどった立体作品など。マーキュロクロムも石膏もゴムも、やはり大森の眼差しが「出会った」モノたちだ。だからこれらの作品も、先の『Material Glance』の延長にある。
ところで、大森がかくも自らの眼差しを絶大なまでに信頼し、ささいなモノにこだわった作品を展開するのはなぜだろうか。それに、よく考えてみたら、彼女の作品は、彼女自身の極私的な眼差しに支えられているのにも関わらず、具体的なプライベートなエピソードなどはそこにはない。純粋に視線の結晶化<物質化>が主題となっている彼女の作品では、大森という一人の人間の存在と世界の関わりが問題になっているのであって、彼女の私的な生活を垣間見せることが目的なのではないのだ。にも関わらず、大森の作品に彼女自身の強烈な私性と、それとは反対の解放感を感じるのはなぜなのだろうか。
精神科医の木村敏は、著書『自覚の精神病理』において、離人症患者の「私」の存在や眼の前に対象の存在感の欠如感覚を考察しながら、私たちの自己認識の方法について次のように述べている。
「知覚における対象構成の働きといわれているもの、それをわれわれの言葉になおして言うならば、いろいろなものを「いまここにある」という形で述語的に統一する行為を意味する。この
「いまここに」と言われる場所は、ものと私自身とを同時に成立せしめる場所として、むしろ対象界の法に、つまり私自身の外にある、とみることもできる。私が私の自分自身を私の内にではなく私の外に、いわゆる「世界」を形成しているところの形成さまざまな「もの」の源泉において見出している・・・」(註2)

「コップがある」「リンゴがある」「という分の主語によって綿地たちはモノの存在を認識しているのではなく、それを知覚しようとしている私の関心が成立するよりも以前の領域において、すなわり、目の前のモノが具体性を帯びる以前の、「(いまここに)あるとしかいいようのない述語的なレベルでのできごとが生じている場所において、私にとっての「自分「もまた同時に現れる。そのモノが「ある」ということにおいて「私」もある、という意味のことである。
この考察にならって、私たちは次のようにいうことができるのではないか。つまり、私たちの目の前には、モノがただ名前もよくわからず存在感も希薄なままバラバラに浮遊している。鈍感 な私たちの感覚は、そのことに恐怖感を覚えないか、あるいは意識的に忘れようとしている。
何気なく投げかけた視線に映ったモノのことなど、いちいち記憶していたら脳がパンクしてしまうからだ。しかし、大森は、その取るに足りないバラバラであいまいなモノたちを「いまここ」の出会いの中に一つひとつの確固たるものとして存在させるために、それらを箱に入れたり日付をうったり、ドローイングを描いたりする。そして自分の気に入った配置方法を探し出す。そうすることを通して、つまりモノの存在の確認を通して、彼女は自分自身の「いまここ」の存在の確証を得るのである。それらがすべて「断片」であることは重要である。かつで何かであり、人と関わったモノ、それがやがて不要になり、打ち捨てられ、断片と化す。存在を忘れられ、この世界から消えかかろうとしているその刹那に、大森の眼差しがそれを捉える。「『世界』を形成しているところのさまざまな「もの」の源泉」___大森がさがしているのはこれであり、それとともに、自分も在ろうとしているのだろう、だけど、何かを求めて血眼になるのとは随分違い、彼女はあくまで何気ない偶然性の中に生じるGlanceに価値をおく。Glanceには「一瞥(ちらりと見ること)」という意味の他に「かすかなきらめき」という意味もある。だから『Material Glance』とは、モノとは認識しがたいまでに断片化してしまった物質の一瞬のきらめきのことでもあり、放っておけば消えてなくなってしまいそうな大切な世界の在処を確かに存在させるための「一瞥」なのである。

山口洋三(福岡県立美術館)

(註1)「極私的なまなざしが状況を照らしだす時」(インタビュー)『フリークアウト』vol.8(1995年8月)
(註2)木村敏『自覚の精神病理』紀伊国屋書店、1978年、P35