物質との対峙_空間への詩学

わたしがいつもやっているのは、物を空間の中に配置する訓練だとおもう。

この展覧会のカタログを構成するのに当たり、作家は、敢えてその内容を過去から現在までの作品の記録(軌跡)とすることよりも、今回の出品作のテキストとして提示したいというはっきりとした目論みを持っていた。その結果、本来なら作品写真を掲載するために使われる6ページを、彼女は今回の作品を読み解く鍵として、ある種完結したひとつの世界として、その作品と同じように断片的な自らの言葉を結びつけながら創りあげていった。それは、作品のテキストであると同時に、彼女にとっては、もうひとつの作品であるといっていいほど重要な意味があるように思われる。その成り立ちは、彼女の作品のそれと全く同様の方法論に依っている。

冒頭の言葉にもあるように、大森裕美子は自分のまなざし(彼女はこの言葉を好んで使っている)を通して見つけたものをそれぞれ箱という完結した空間の中に配置する。それは、珊瑚をひとつづつ小さな箱の中央に納め、採集日とそれを納めて日付を記し、標本箱のような体裁にした箱を500個以上も並べた作品としてあらわれたり、またあるときは、同じ携帯の植物の種子を60数個、同様な方向に秩序だてて箱に収めて展示した作品としてあらわれる。しかし、これらの作品は、箱に納めるといっても。空間の中に物を配置した単なる標本箱の集合ではなく、小さな単位を重ねることで、増幅しつつも完結している。不連続でありながら連続している。秩序を否定しながらも秩序だっている。また静と動を合わせ持っているひとつの作品として完成されている。
そこには、物質と空間が独自の緊張関係を結んだ固有の宇宙が広がっている。
と名付けられたこの珊瑚の作品の場合は、夥しい数の珊瑚の集合体であるひとつの作品として床面に並べられることで、単体としては小さな箱に入った珊瑚が連続することで一体化している、というミクロな世界からマクロの世界への移行過程を看取することができる。さらに彼女は、箱に納められた珊瑚ひとつ納められたひとつに対応するドローイングを残しており、そうしてひとつひとつの珊瑚の存在を改めて手探りで確認しているようである。作家にとって、このように箱に納めていく行為は余りに日常的な所作であり、この作品を画廊に展示するのにあたり、「作品」という言葉自体にも隔たりを感じたという。その世界は飽くまでも閉じられた小さな箱から始まっているのである。しかしそのまなざしは、出発点としてはひとつの箱の世界にむけられるが、その限定された小さな世界が集合体となることで、物理的にも視覚上も思いがけないダイナミックな展開をして、空間を切り開いてゆくということ、単位としては閉じられて地位差な世界でありながら拡大された世界に組み換えられてゆくというアンビヴァレントな展開を常に含包含している。
小さな箱に物を配置することの原点は、中学生時代5㎝立方の箱に土を採り、顕微鏡でえ観察したときに、その中に無数の生物がうごめいていたという驚きと感動である。現実のサイズは小さくてもそこに凝縮された宇宙を垣間見たのであろう。そこから彼女のまなざしは自然な形で<作品を作るという意識ではなく、むしろみずからのまなざしを確認してゆくという行為を通して)小さな箱へと向けられてきたが、彼女にとって重要なのは、「小さい」というそのサイズではなく、ある限定された空間を自らの世界として構成してゆくことなのであろう。実際、「物を空間の中に配置している」のではなく、「空間を物の中に配置している」のかもしれないというパラドックスも成立するであろう。
大森裕美子の作品のキーワードは、「箱」と「自然」であるように言われる。「箱」は前述したように限定された空間という意味では彼女にとって重要なキーワードかもしれない。そして箱に納められた物体が、珊瑚であり種子であったということで、その構成要素として「自然」の中の物を中心に据えている。原体験である顕微鏡を通して見る世界を再構成している、ととらえることも可能であろう、しかし彼女が箱に納めているのは果たして、海岸に打ち上げられた珊瑚であり、街路樹から落下してきた植物の種子なのだろうか。珊瑚も種も箱のなあに配置され納められた瞬間、それはかつての珊瑚であった珊瑚と全く同じ形態の新たな存在、かつて種であった種と全く同じ形態の新たな存在として、変容してゆじゅであろう。その時もはや作家にとっては、珊瑚に「海岸に打ち上げられていた」という自然を刺し示す形容詞も、それに付随する物語性も不要なものとなるであろう。そのまなざしは[物質」そのものへ向けられてゆくからである。
ここまで作家の原点である「箱」の柵にについて語ってきた訳であるが、今回の出品作品の形体は、むしろ昨年発表された画廊の壁に亜鉛板を配置し、その全面をマーキュロクロムで塗り込めた作品の系列に属する。0コンマ75ミリメートルの厚さの天然生ゴムにいわゆる赤チンと呼ばれているマーキュロクロムを付着させ、自然光の差し込む大きな窓を覆うというプランである。また床面には石膏板をタイルの目地にそって配置することになるであろう。マーキュロクロムは作家が今までにも好んでドローイングを描く時などに用いてきた材料である。マーキュロクロムは水銀が含まれているので独特な発色をする上、塗る素材によって、ほかのメディウムよりも発色にそれぞれ大きな差が生まれる。しかしそれ以上に子供のころ怪我をして膝小僧を真っ赤に染めていた世代にとっては、その存在自体が生理的に非常に生々しい現実味を帯びたものである。実際作家のファイルに綿に染め込んだ赤チンの塊が綴じてあるのを見たとき、生肉の塊を見たような赤裸々な生々しさに何とも言い難い衝撃を受けた。彼女はこの赤を「ニュートラルな色の隣にある色」ととらえ、意識的に使用する。また生ゴムもある意味ではマーキュロに近い皮膚感覚を有する素材である、キャンバスや紙、鉄板にはないその存在自体がもつ得湯のなまめかしさがある。マーキュロのどろどろした溶岩のような感触、生ゴムの爬虫類的な素材感もまた、作家の物質そのものへのまなざしを捉えたのであろう。
窓を覆ったマーキュロが付着して赤く染まった生ゴムは光をどのように透過しながら床に置かれた白い石膏板との対比を示すのであろうか。窓を覆う生ゴムの有り様について作家は「結界」という言葉を用いている。元は仏教用語(「修行のために一定区域を限り、そこに修行の障害となるものの立入りを許さない」という意)で、建築においては文字どおり、二つの世界を閉じつつも結ぶ=切り結ぶ、その境界の意味で用いられることがあるという。ある世界を限定しつつも外の世界との接点を持つというその方法論は、箱の作品と共通のものである。箱という切り取られた世界は大森裕美子にとって決して遮断された唯一の世界ではなく、常に周囲(連続してゆく箱」の世界と「結界」で結び付けられていると考えることができるであろう。
これ以上これから完成してゆく作品を仮定で語るべきではないかもしれない。この作品では敢えて物語性を排除し、会場内にこの作品を語るための導入部としてのもう一方の作品を用意し、さらにこのカタログも作品のためのテキスト足る作品となるのであるから….

中村麗
(セゾン現代美術館 「ART TODAY’92 トランスアートのパラドックス/透明な光のポリフォニー」 )

ART TODAY ’92