開かれた「私」の世界

大森裕美子の作品を見て、あなたは何を思うだろうか。マーキュロクロム、俗に赤チンと呼ばれる液体で染められた真っ赤な直方体、折り畳まれて白い石膏にかこまれた赤いゴム。小さいが存在感のあるそれらの作品は、形が単純であるために様々なことを思いめぐらすことができる。したがって作品の受け止め方は多様だ。閉じられた空間の中で展開する世界のようにも思えるし、赤と白の組み合わせは何やらおめでたいことでもあったのかと受け取れるし、また折り畳まれたゴムの色と形から、エロチックな想像を含めた女性らしさを感じる人もいるだろう。だが、当の作品自体は、そんなことと全く無関係に我々の目前にあるのだ。

 作品というものは不思議な存在である。作品が完成し、公開された時点でそれは独り歩くを始める。つまり、作品はつくり手の元を離れることによって、つくられた当初の段階と違った見方を余技なくされるものだ。そして見る側が作者の思いや考えと別のことを作品について語っても、必ずしも間違いといえないのである。むしろそんな視点や意見が、作品の持つ意味を明らかにすることだってありうる。

 大森の作品は、彼女と作品となる「もの」が出会うことによって生まれるという。実際彼女が作品を発表し始めたころは、彼女の見つけた小石や針金が何年何月何日に「採集」され、箱に入れられたかということをしている。今から3年ほど前、大森の作品と知らずに見たそれらの「箱」は、マーキュロクロムの作品の作者と同一人物の作品と考えられなかった。いや、「箱」の作品量を作品ととらえることも難しかったかもしれない。あまりに小さくて膨大な量の「箱」たちは、大森と出会わなかったら作品となっていなかったものばかりだったからだ。つまり、展示された作品は大森との出会いの展示といっていいのである。彼女に言わせると、これらの「箱」の中身とマーキュロクロムや石膏は「自分と出会ったことによって作品になる」という。確かに作品をつくる立場に立ってみれば「箱」の中身の夏ミカンの皮切りやマーキュロクロムは、作品の要素として等価な扱いをされている。

 どのような作品でもそうだが、作品があまりにも作者の自己満足にとどまっているものに対しては、見る側の態度も「だから何?」と厳しい。作品を作るという行為は、私的な事でありながら、同時に公の場と接する社会的な行為であるから。今回の出品作『das Gartenbeet 苗床』をはじめとする大森のマーキュロクロムの作品は「箱」の世界が持っていた内省的な世界から一歩進んだようだ。作者・作品・鑑賞者のつながりの強さが均等になったというべきか、作者と作品の間の強い絆は保たれながら、同時に作品を見る我々に自由な想像を許す寛容さを、私は大森のマーキュロクロムを用いた作品に対して感じる。

 もっとも、これは大森が作品に出会うことがなかったから語れないことでもある。こちらがそんなに深読みしても作品に接しても、大森の作品はまた別の見方を示しているから。彼女はよく「出会うことは才能」と言っているが、見ている我々が作品に対し考えたり、想像することができるのは、作品の持っている才能だ。しかしそんなことを我々が言っている間に、大森はまた別なものと「出会って」、作品にしているかもしれない。


尾野田純衣(多摩美術大学美術学部芸術学科 TAMA ViVANT ’96)