美術と博物展_自然の形態と神秘
大森は自分の作品について語るとき、「まなざし」という言葉を使っている。日常的な生活の中で、彼女のまなざしが受け入れたさまざまなものを採集してきて、一定期間放置し、いつか箱の中に配置することによって作品になるのである。彼女のまなざしが選ぶものは必ずしも自然物だけではなく、人工物もその対象になる。しかし人工物を選ぶ場合も、彼女のまなざしは、人工の背後に人間の営為や意図など饒舌な属性が感じられるものには関心が無く、あくまでも物質、あるいは時間の経過の中で第二の自然として還元されたものに関心を持つようである。 大森はまた、「小さな傷口<庭>を見つけるとそこに世界のすべてがあるように思われる….」と言う。つまり彼女のまなざしにとって、例えば磨滅したサンゴのかけらひとつに、世界のすべてが開示されているということなのである。実際にものには、それがたった一個の磨滅したサンゴのかけらであっても、そして視覚が認知できる表面においてだけでも多くの情報が秘められている。ただそのものを通して世界が自らを開示するために大森というまなざし=神秘が必要とされるのである。
このようなまなざしを持つ大森にとって、ものとの関わりは支配的ではないことはもちろんだが、対等といっても言い過ぎであろう。ものが開示する世界に身を浸しているという言い方が適当であろうか。当然のことながら彼女は、素朴な人間中心主義とは無縁であるし、近代的な意味での表現意識も制作意識も持たない。
まなざしによる採集、一定期間の放置、箱の中への配置、テグスによる固定、配置されたものを採集した日「encounter day」と箱に配置した日「specimen day」(標本作成日)の記載、サインという一連の行為が彼女の制作のすべてである。採集されたものは、箱の中に配置されるまではあてどない中立的な頼りなさを持っているが、配置されることによって、受精した瞬間の卵子のように、箱の中で自らの価値を確定する。
大森は最終的に、採取されたものを標本とした小さな箱を多数組み合わせてひとつの作品としている。即ち標本箱の美学あるいは集積の美学。そこには彼女の持っている博物学的感受性とでも言うべき感受性が息づいている。逆説的ではあるが、このようなかすかで繊細な方法にこそ最もはっきりと作家の質が表れるものなのだ。
福井県立美術館 芹川貞夫