「計量可能な精神としての物質」について

大森裕美子の個展を見た。痺れる展示であった。

 今回の展示において大きな比重を占めているのは「言葉」である。展示に即していうならば、壁面に設置された小さい立体とともに、壁面に直接刷られた「言葉」である。例えば、ある壁面には、ひとつずつ小分けにされたバター容器を石膏で型取りしたと思われる小さな立体が設置されており、近くに「溶けだしてしまうバターのようなひとつぶんの望み」という文字が刷られている。言葉が喚起する想像力と、目の前にある物質の存在感があいまって、あまり感じたことのない感覚が生じてくるのだ。彫刻や立体を見る経験とも違うし、小説や詩を読む経験とも異なる。いつもは同時に働くことのない感覚や認識が、同時並列的に働き、その処理が互いに影響しながらも、両者の独立性が損なわれることがない、そんな感じである。このようにして、「もの」と「ことば」が組み合わされてひとつの作品が成り立っており、そのような形態の作品が複数展示されて今回の展覧会が成り立っている。

 もちろん、美術作品に言語が用いられるのは珍しいことではないし、言語の使用だけを取り上げてその是非を問うのも不毛である。しかしながら、今回の大森の展示における「言葉」は、言葉を用いた美術作品の例をいくら思い浮かべても、そうした多くの前例と同列に語れるものではないという違和感が強くなるだけなのである。なぜ気になるのか。その言葉の形式があまりにも「文学」であり、その言葉の内容があまりにも「物語」であるからだ。

                       

 まず展示の形態ついて。美術作品に用いられる言語の様態は様々であるが、すぐ思い浮かぶ例としては、展示空間に呼応する大きなサイズや空間にあわせたインスタレーション的な提示の方法(ローレンス・ウェイナーなど)、ネオン管や電光掲示などを用いて視覚的な強度を高めて提示する方法(ブルース・ナウマン、ジェニー・ホルツァーなど)、あるいはテキストをパネルや額装するなどして平面作品のように提示する方法(ソフィ・カルなど)などが挙げられる。こういった例に比較すれば、本展では、文字は小さく、デリケートに、白い壁面に直接刷られている。まるで上品なタイポグラフィの書物のページをそのまま壁面にうつしとったかのような印象である。それはとてもひそやかで、とても好ましく感じられる。あまりにも「文学」である、と書いたのは、そういう意味である。画廊にいながらも、読書という個人的な行為が思い起こされ、作品を見るという経験が極めて私的な様相を帯びることになるのである。ところが、この文字を読もうとするとなると、身をかがめ、顔を壁に近づけ、窮屈な動きを余儀なくされる。自分の体があまりにもぶざまな気がしてくる。どうにかして自分の体が小さくなりはしないかとさえ思う。白く、控えめで、慎ましく、この上もなくデリケートな気配に満ちた空間に、あたかも聖域を汚す侵入者として自分が存在している、この気配を破壊する前に早く立ち去らなければ、そう思いながらも、この魅力的な空間にいつまでも佇んでいたいという欲望に勝つことができない。

 断っておくがこれは批判ではない。空間に即した展示が望ましいとか、美術作品らしい造型物として呈示する必要があるとか、そんなことがいいたいのではない。自分の体のぶざまさを強く意識させられながらも筆者が感じたのは、むしろその逆のことである。言葉を用いた作品に限らないが、空間に負けないように意味もなくサイズを大きくした作品、必要もあまりないのに大げさな物質感を与えたりする作品、鑑賞者の感覚的な欲求のレベルに迎合するような作品、サーヴィス精神の押し売りのような作品、そんな作例を多く目にしていると、そうした誘惑に全く惑わされず、徹底して個人的なレベルにおいて制作及び展示が遂行されているという潔さが、実に新鮮に感じられたのだ。「極私的」ともいえる表現の個人主義的な徹底ぶり、これは様々な形態を取る大森の作品全般に共通する特徴と言えるかもしれない。その資質は、今回の展示においては、個人的な営為である「読書」という作業を思い起こさせる「言葉」の利用としてあらわれている。そして、そうした個人的な享受を要求する作品であるにもかかわらず、不特定多数の人間に空間的に開かれている画廊という場で呈示されていること、それこそが筆者の気になった違和感の原因なのだろう。

                       

 二点目は、その言葉の内容が、「物語」である点である。例えば、本展のDMには、下記の文章が印刷されている。

 「綿畑に埋められた世界の見本 そうした続きの続きの話 繰り返される部品の話」

 この一文を読むだけで、本展で提示された言葉が、いかに想像力を刺激し、いかに様々な「物語」を喚起するかが十分理解されるだろう。しかし、この点については、ここで論じることができない。なぜなら、「物語」という問題は筆者の手に負えるタームではないからだ。批評に携わる者として、それが決定的な欠落であることは認めざるをえないのだが、いまの私には「物語」について論じることができない。無責任きわまりないが、誰かがこの問題について論じてくれることを願うのみだ。

                       

 最後に、本来は上述した「物語」についての具体的な分析をふまえた上で指摘すべき問題なのだとは思うが、筆者が本展を見て最も強く感じたことを、やはり記しておきたい。それは、「主体の分裂」あるいは「生の断片化」という現代社会に生きる人間が感じざるをえない典型的な兆候を、アナクロニスティックな「主体」や「生」の回復によらず、別の形で克服する可能性が示されているように感じられたことである。甚だ抽象的な議論ではあるが、大量生産-大量消費という物質の氾濫する状況において、安易に「もの」の唯一性を希求するような自然主義的・人間主義的な退行によってではなく、「物質」とはそもそも「精神の計量化」であるというとらえかたによって、断片化した生のリアリティを受け入れつつ克服する可能性を示していると思われたのだ。もちろんそれが作者である大森が今回の作品の構想にあたって意図していたことであるかどうかはわからない。これはあくまでも本展を見た筆者の個人的な感想にすぎない。最後に、この「計量可能な精神としての物質」という考え方へと思いを至らせてくれた、今回の出品作品のひとつに記されていた印象的な一文を、もう一度引用してこの支離滅裂な文章を締めくくりたいと思う。

「溶けだしてしまうバターのようなひとつぶんの望み」


梅津 元[埼玉県立近代美術館]